これより語るは、いつかの時代の片隅で“生まれていたかもしれない”人の呪いの断片である。
時は大正、帝都某所。
流行の帽子を被る洒落たモダンボーイが、とあるカフェーの扉を開けた。
彼の周囲の若者達が、こぞって噂する話題のカフェー。
『あのカフェーには女給の幽霊が出るという』
『雇った覚えの無い娘がいて騒ぎになったらしい』
『瞳の色が左右で異なる、美しい乙女だと聞いた』
『そういえば、■■と■■が店に行ったとか』
『■■は居たと言い、■■は居なかったと言い……どちらが真実なのやら』
彼もまた、女給の幽霊に会おうと試みる一人だった。
カランカランとドアベルが鳴る。
モダンボーイが早々に店内を見回せば、古参の女給が慣れた様子で彼を出迎えた。
「いらっしゃいませ。お客様も噂の幽霊がお目当てで?」
無言の頷きに、女給は安堵に寂しさを滲ませた声で告げる。
「でしたら、一足遅かったようですわね。幽霊はいなくなってしまいましたのよ」
そうか、いないのなら――と。
モダンボーイが口を開くより先に、近くの席の常連達が饒舌に語り始めた。
「いなくなったんじゃない。祓われたのさ!」
「親切な拝み屋さんが、噂を聞いて駆けつけてくれたんだ」
「拝み屋が来た日から幽霊騒ぎはぴたりと止んだよ」
「《見える客》は皆、太鼓判を押している。『もう見えない』とね」
常連の紳士らは一通り話を終えると、珈琲香る世間話の中に戻っていく。
「お客様、いかがなさいますか」
女給はモダンボーイから帽子と上着を受け取る頃合いを見計らっていたが、帽子を押さえて軽く頭を下げる彼の仕草に、すぐさま振る舞いを変えた。
いないのなら――もう、興味はない。
幽霊がいないと知った途端、茶の一杯も頼まずに立ち去る客を女給は何人も見送って来た。このモダンボーイも同じだったのだと、慣れと呆れを古参らしく経験で包み隠し、閉じていく扉へと言葉を送る。
「またのお越しをお待ちしております」
ドアベルが鳴り止み、女給はそっと入り口を離れた。
溜息を胸に仕舞い込んで片付けの続きを始めると、後輩女給が手伝いがてらに声を掛けてくる。どうやら、どこか物憂げな様子が気にかかったらしい。
「■■さん、浮かないご様子ですけど……」
「今のお客様を見ていたらね、なんだか、あの子を思い出してしまって」
「ああ、幽霊の。■■さんも《見える人》でしたからね」
「ええ。皮を縫って繋いで人を取り繕ったような、継ぎ接ぎだらけの――それでも、愛らしいと思える子だったわ」
「……?」
――怖ろしいだけではなかった。
想い出に目を細める女給の横で後輩は首を傾げる。
当然だ。幽霊は娘の姿をしていたというのに、想起の切っ掛けとなった客は男だったのだから。
ならば何故、女給は想い出に至ったのか?
疑問を察した女給は、空いた手で己の額を指し示す。
「帽子の下にね、縫い目があったからよ」